【社説】『大デモ』群衆が集合的に創り出す、社会的アートプロジェクト

2013/12/3 -Tokyo

三宅洋平さんは今年の夏の参議院選挙に立候補し、主に原発、憲法9条、TPP、さらにはグローバルな規模で起こっている戦争経済からの脱却や地球環境保護などの問題に対して、妥協を一切せずに真っ正面から大胆に問題提議をやってのけた。『選挙フェス』を全国で展開し、やさしいながらも精度の極めて高い言葉と音楽を駆使しながら、民主主義や選挙や政治について啓蒙的なメッセージを人々に投げ続けた。結果こそ落選だったが、全くの無名の状態から17万票という票を獲得し、選挙前とは一味違った、理想を掲げることを恐れない、新しいオルタナティブな政治勢力、もしくは新しい共通認識と勇気と熱を持った「意識の大陸」を日本に生み出した。

そんな三宅さんが言い出しっぺのデモ、『大デモ』が今週末の12月7日(土)に迫っている。

選挙や選挙演説の固いイメージを一蹴した三宅さんの『大デモ』の大きな目的の1つは、日本においてのデモのどことなく固く殺伐として近寄り難い、若者ウケしないイメージを変えること。政治について友人や家族と日常的に語り合ったり、市民運動に参加したりはしてこなかった、社会活動家でもなく、断固とした主義主張を持っているわけでもなく、TPPや特定秘密保護法案の綿密な内容や問題点を把握しているわけでもないけれど、漠然と現政権に不満を抱いている「普通の人達」がよりカジュアルに楽しくデモに参加できるようにすること。老若男女がカジュアルに参加できて、音楽が流れ、様々なパフォーマー達がいて、マルシェなどもある、多様性の漲るパリやベルリンで行われるような、思わず踊り出したくなるような楽しいデモを三宅さんは思い描いている。

同じベクトルを持った人がたくさん集まって「お前らあんまり調子に乗るなよ」と政府にプレッシャーを与えるのがデモの目的。数は力であり、団結した群衆は権力にとっては脅威なので、一般のごくごく普通の人々が団結して理想を掲げることは、自民党やアメリカや多国籍企業の意思やビジョンではなく、市民の民意を政治に反映させて、少しずつ理想を市民の元にたぐり寄せてゆく為にはとても有効だし必要なこと。なので、現政権は好きではないけれど、デモのガチすぎる感じの雰囲気も好きではない、という人々の為にデモの敷居を下げる『大デモ』のアプローチは名案だし、 デモの目的を踏まえると実に現実的な考え方でもある。

私は個人的に『大デモ』をとても楽しみにしている。夢や理想を語れない冷めた社会から脱却することや、地震、津波、そして自然災害ではなく人災である原発事故を経験した日本人が抱いているある種の共通認識や感情を再び確認し合い、拡散し、一般市民が結束を強め、再びコミュニティーを創出することが必要な今、『大デモ』はその足がかりになるかもしれないと思うし、単純に『大デモ』がどんなデモになるのか興味深くもある。

経済的、物質的には豊かにはなったけれど、表面的な豊かさにばかり気を取られているうちに心が置き去りにされ、コミュニティーが細分化され、人と人との繋がりが希薄な寂しい社会になってしまった日本社会だけれど、地震や津波や原発事故といった大惨事を経験し、今またバラバラになった社会の中のあちこちで集合への欲求や、未来や健康を妥協するのではなく、シンプルに理想を掲げて進みたいという欲求が高まっている。原発事故後の日本という新しい時代は、私たちにとって、同じ社会の中で同じ時代を生きている人々とバラバラにではなく、再び共に生きることを始められる大きなチャンスの時期だと私は思っている。

「社会的アートプロジェクトとしてのデモ」

理由も無いのに音楽を演奏したり歌ったり踊ったり、絵を描いたり文章を書いたりするのと似て、デモはどちらかというと模索的で非合理的でクリエイティブな行動だと私は思う。合理的に効率的に動きたいと考えるのも人だけれど、非合理的な行為というのは、人間が人格を形成したり、社会や思想や芸術を成熟させてゆく為には最も大切な作業の1つ。

例えば1万人くらいの、ざっくりと同じような未来を思い描いている人々が物理的に集合して、一緒に夢を見たり、語り合ったり、平和の行進をしたりしたら、そこにはどんな空気や感情やアイディアが生じるだろうか?得体の知れない勇気を得て、何かをやってみようと思う人々もいるのではないだろうか?非日常的な光景や空気(群衆が集合的に創り出しているアート)に感化されて、人々は足を止めて何かを感じたり考えたりするのではないだろうか?

機械は証明されていることや効率の良いことだけをやるけれど、生ものであり心や感情を持っている人間は、非合理的なこと、短絡的に見たら意味のないこと、お金にも社会的地位にも資格にも学位にもならないけれど大切なことやおもしろいことなどもしっかりやらなければいけない。何らかの理由で何かをやりたいと感じ、思考し、行動に移し、試行錯誤を繰り返すことで物事はゆっくりと成熟してゆき、私たちは「何か」に近づくことができる。

デモをやってストリートに出て平和を叫んだからといって、すぐに戦争が無くなるかといったらすぐには無くならないだろうし、脱原発のプラカードを持って街中を練り歩いても、核のない社会が一朝一夕で実現するということはまずない。デモをやってみて、どのくらいの数の人々が賛同してデモに参加するのかも不確定。仮に数十万人のデモが起きたとしても、それによってもたらされる変化が具体的にどんなものになるのか断言することはできない。

だけど、わからないからこそやらなければいけない時もあると思う。最終的に戦争が無くなるかどうかはわからないからといって、戦争反対を叫ぶことをやめなくてはいけないということはないし、すぐに脱原発できるかはわからないけれど、もし自分が核なんか無い方がよっぽどいいと思っているなら、しっかりと夢を見続けて、自分にできることをやればいい。日本人はもっとドリーミーに、ロマンチックに生きてもいいと思う。

それに、人間の行動や習慣や、何を「普通」と捉えるかは、文化的、習慣的に確立されてゆくものなので、あるアイディアやビジョンが多くの人々によって集団的に共有され繰り返されれば、それはおのずと「普通」の現実となってゆく。硬直しているように見える日本の文化も、人が変われば変わるのである。

結果が見えない、成功する保証が無いという理由だけで、何かをやってみることが許されなかったり必要以上に批判されたり弾圧されてしまうような社会は、夢を見ることを許されない至ってつまらない社会だ。日本にはたくさんの素晴らしい文化もあるけれど、そうでない文化も多い。自由を嫌う窮屈で陰険で想像力やビジョンに欠けるパッシブアグレッシブで他人任せで無責任な文化には、できる限り染まらないでいたい。

ビジョンを持ち、自分のいる位置、立場、手元からやれることをやる。自分自身のベストを尽くすことが、私たち一人一人にできる唯一のこと。自分にできることは何かを自分の頭で考え、より多くの人が他人と競争したり合わせることにエネルギーを使うのではなく、あくまでも自己のベストの更新を継続してゆけば、まず国民の間に主体性が生まれ、次にその国民性がお国柄にも反映されてゆき、大きな空気も変わるかもしれない。

これから日本はある種の予感や理想を抱き、市民が結束を強めながら、夢の見れない冷めた社会から脱却し、共同体が持ち始めた共通認識の再確認や拡散を段階的に継続的にしてゆき、新しいポジティブな文化を築いてゆけるかもしれない。私は様々なことを日本に期待しているし、ポジティブな方向へのシフトの為に自分自身もやれることはやりたいと考えている。

『大デモ』は原発事故後に新しい時代に突入した日本における極めてポジティブでクリエイティブな「社会的アートプロジェクト」だと私は捉えている。三宅洋平さんのやっていることは、音楽活動であり、社会活動であり、政治活動であり、アート活動。『大デモ』からまた新たなコミュニケーションが生まれ、人々はお互いに出会い繋がり、インスピレーションや人間関係が生まれ、この若いムーブメント(または時代)は繋がり生き続け成長し続けるだろう。

では、デモで会いましょう。

 

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三宅洋平さんのブログ

http://ameblo.jp/miyake-yohei/

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